葦は明日を考える。

一人の人間が考えた『明日』を、つらつらと書き連ねます。

無職漂泊日記/対話篇

日記形式苦手なんで対話篇にしました。別名禅問答。

 

対話篇的プロット

 


ⅰ)石と意思

 


イヴィエズラ/「角が丸くなった」という言葉知ってる?

 


最近思ったんだけど、私の心は四角形なのかもしれないなーって。

それでね、その心の中の角っこの、言葉とか感情が、自分や周りの人を傷つけちゃうから、そんなの要らないからって、角を切り落としてきてたみたいなの。

 


でね、川底の石は丸くて手触りが良いよね。やっぱり角が取れてるから。

 


ラグチカ/じゃあ角が取れると和らかくて良いのかな?

 


イヴィエズラ/私も最初はそう思ったんだけどね、違ったみたい

河原の石はね、どんな時も自分で自分の角を切り捨てることはしなかったの

ただ、流れに抗って、他の石と争って、周りの世界にぶつかって欠けたり削れたりしながら、そうやって、やっと、少しずつ丸くてすべすべの石になっていくの

 


ラグチカ/そしたら自分で角を取るのはダメなのかな?

 


イヴィエズラ/んっとね、それなんだけど、丸くてすべすべな石だけが良い石ってことでも無いのかも。

 


自分で自分を削るとね、丸く綺麗には削れないんだよね

「四角形の中にある四角形」って見える?

 


ラグチカ/んー……「菱形」?

 


イヴィエズラ/そう、菱形。四角形を削ったとしても下手っぴな削り方だともっと鋭角になったり角が増えちゃったり、なのに自分の心は削れていってしまうの

 


だけどね、自分の好きな形に自分を削れるのも自分だけなんだと思う。

 


ⅱ)鏡、体の地図、心の地図。

 


すごく大きな感情が溢れそうになった時、必死に飲み込んだ時の話。

 


ラグチカ/誰かを好きになった時とか、テレビの悲しいニュースを見た時とか、自転車で転んじゃった時とか、頭の脳みそのある所より、もっと後ろの方から、凄くおっきい感情がブワーってなったりしない?

 


私はそういう時ね、言葉と心を飲み込んで、自分の心の中にある鏡を見るようにしてるの。

そうやって写した自分の姿を見てやっと「あぁ、好きになっちゃったんだ、悲しかったんだ、寂しかったんだ」って分かるんだ。

 


だけど、だけどね、気づいた時にはいっつもそれを伝えたい人は私の声の聞こえない所に行っちゃう。

 


他の人をジーっと見てたら、他の人はあんまり言葉を飲まないみたい。

思った事がそのまま体と繋がってる、っていうか。

 


イヴィエズラ/ラグは「身体の地図」って知ってる?

 


ラグチカ/んー…知らない。

 


イヴィエズラ/ううん。それは言葉を知らないだけ。ホントは知ってる事だよ。

ラグは目を瞑った時に自分の手足が何処にあるか分かるでしょ?

それが「身体の地図」。

人はね、鏡なんか見なくても自分の身体をちゃんと見えてるんだよ。

もし目が見えなかったとしても、それでもやっぱり、毎日一番触れて、聴いてるんだもの。

 


心もきっと同じなんだと思う。自分の気持ちからわざわざ距離を置いて目を凝らさなくても、もしその時、間違っているように感じたとしても、多分本当の自分のその時の気持ちは、そんな事をしなくても、分かってるし、伝えられると思うよ。

 


ラグチカ/伝えちゃダメ。

 


イヴィエズラ/どうして?

 


ラグチカ/だって、もし伝えたら、きっとまた一人ぼっちになっちゃう。

 


イヴィエズラ/でも、伝えなきゃラグの中の「好きになった自分、こわかった自分、寂しがりやな自分」はずっとひとりぼっち、なんじゃないかな。

 


…なんて、言われなくても多分ラグはもう気付いてるもんね。

だから今私達はこうして喋ってるんだもん。

 

 

 

Ⅲ)メンヘラ

 


バンドマン/俺多分メンヘラだわ。

 


ニート/は?

 


バンドマン/いや、なんかこないだ死ぬ前にさ、何人かの知り合いに今まで自分が経験してきた事を話したんだよね。

したっけさ、なんか納得されちゃって。

 


ニート/ほう?

 


バンドマン/うん。納得。俺が自殺する理由に対する納得。自殺はいけないとかじゃなかったんだよね。

 


ニート/止めて欲しかったのに期待外れだったな?

 


バンドマン/まぁそっち方面ではね。でも俺の自殺を止めるってめちゃくちゃリスキーな行動じゃん?

だからまぁ、そりゃ本音を言えば「結局そんなもんかよ」と思わなかった訳でも無いけどさ、でも「まぁ仕方ないな」って。

 


ニート/メンヘラと言う割には随分物分かりの良い考えだな。

 


バンドマン/そうなのよ。だけどさ、なんかめちゃくちゃメンヘラな友達がこの前出来てさ、俺ソイツに「ホントはメンヘラでしょ」って言われて何も言い返せなかったのよ。

 


ニート/でもソイツらとお前は違うだろ?

 


バンドマン/行動はね。でもさ、求めてるものは同じだったんだよ。

俺は他人を求めないようにしてるし、自分の幸福より他人の幸福を願うようにしてる。

所謂、構って構って〜ってやって周りを不幸にしてでも自分の幸福を求めるタイプのメンヘラとは、そこは逆。

でもさ、ホントは寂しいし、辛いし、不幸だと思ってる。

だってさ、どんなに楽しい一日を過ごしたとしても、悪夢を見て叫びながら起きるんだぜ?どれだけ幸せになろうが、俺1人じゃこの不幸からは逃げられないよ。

でもさ、だからといって、いや、だからこそ「じゃあ、自分の中にあるそんな不幸に、他人を巻き込めば幸せになれるのか?」って言われたらそういう訳じゃないだろ。だって、それは唯々不幸な人間が増えるだけだろ?

それなら——

 


ニート/だから、せめて人を傷つける前に死のうってか。

 


——ん、まぁ、カッコつけるならそんな言い方も出来るけど。でも、もっと根底の部分にあったのは疲れと諦めだったな。

もうえええわ、みたいな。

ホントね、疲れてたんだよな。怒るのも我慢するのも。伝えようと試行錯誤するのも。

だってどれだけやったって何も変わらねぇんだもん。

 


ニート/ん、でもさ、それを理解してくれたんだよな。失踪前夜に話した相手は。

 


バンドマン/そう、それなんだよ。

なんかさ、もう「あーーー」って気持ち。

 


ニート/なんじゃそりゃ。

 


バンドマン/幸福と不幸のダブルパンチを食らったときの感嘆の声的な?

 


ニート/で、どうすんのよ、これから。

 


バンドマン/他人を求めてみようかなって思ってる。

 


ニート/不幸にしたくないんじゃなかったのか。

 


バンドマン/建前だよそれは。本当は自分の怒りや悲しみみたいな弱さのせいで避けられて、また一人ぼっちになるのが怖いだけ。

だから本当に一人ぼっちになろうとした失踪前夜は言えたし。

 


ニート/死ぬ気でやれば、ってあながち事実なのかもな。

 


バンドマン/まぁやけっばちだよ、ただの自暴自棄。たまたま上手くハマったけど、俺は死ぬ気でやるより、生きる為にやる方が人間らしいと思うよ。

 

神はいるのかいないのか、についての自論とか。

はい、そんな感じのテーマです。

結論から言うと僕は神は「居る」もしくは「有る」もしくは「有った」のは確実だろうと考えています。

何故か?

えー、では例の如く小さな視点に落とし込んで考えてみましょう。

例えば貴方の目の前に石があります。そして貴方の今いる空間には時間も流れておらず、風も吹いていません。まぁつまりその空間に作用できる存在は貴方だけという事です。物理的な話ですね。

さて貴方の目の前にある石が動くのはどんな時でしょうか?

僕はこの時石が動くのは貴方がその石を動かした時だけだと思います。

カッコつけた言い方をするなら「意思が石を動かす」

カッコえぇーー!!!

 

何か物が動いている時にはそれ相応の理由があります。

そして、もしこの世界が完全な無から生まれたとするのなら、そこには何かの意思が介入したはずです。

その結果として宇宙が生まれチリが飛び続けているとしても不思議ではないでしょう。

その意思を僕は神と呼んでいます。

 

とりあえずはここまで!

ではでは、皆様に幸福な終わりが訪れますようにー!おやすみなさい

「鬼滅の刃は何故面白いのか=作品の感想を自分で考える時代は終わった→そして起きること」感想、あと僕のコミュニティ論とか。

https://anond.hatelabo.jp/20201104013753

どうも、誰にもなれない人間モドキ、まぢかるです。

今回冒頭に貼ってある記事なんですけど、とても面白いんですよ!!

だからそれを読んでる時の自分の感情の推移とかを書きたいなーと思ったので!書きます!

えー、その前に色々と与太話をさせてもらいましょうかね。

僕は僕が勝手に決めた人間の定義ってのを考えててこれは3つあるんですけど、まずそれを書きますね。

① 自分が行動するのかしないのかを自分で選択する事。

「してるが?」って思います?思うだけなら大丈夫、でも「してるが?」と声に出したとしたら、貴方は自分で自分の行動のする、しないを自分で選択する事は出来てません。

これはどっかの誰かの研究なんですけど、僕たちが普段自分の意思だと思っているものは実は脳味噌に「これはお前の意思だぜ」と騙されてるだけなんですよね。

いやまぁ意味不明なのは分かってます。詳しくは下記のリンクをどーぞ。

https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/

 

読むのが面倒くさいって人のために掻い摘んで書いておきます。

例えば貴方が手を握りたいとしましょう。多分貴方はこう思っていますよね?

「自分の行動プロセスは『自分が手を握りたいと思う』→『手を握る』となる」と。

ですか実際は「脳が『手を握る』と命令を出す準備をする」→「脳が命令を送る」「自分は手を握ると考えたと感じる」→「命令が届き手が握られる」という過程を踏んでいます。ちなみにこの脳が準備をして手が握られるまでの時間は0.2秒程らしいです。

まぁつまり我々人間が考える前に、既に我々の意思決定は脳によって決められてるという事ですね。これだけ聞くと「自我」や「自由意志」といったものが揺らいでしまうと思います。

ですが大丈夫!この脳が命令の準備をし我々が「思った!」と感じた瞬間と、実際に命令が実行されるまでの0.2秒の間にだけ、人間はその命令をキャンセルする事が出来るんです!!!

まぁでも0.2秒という短い時間じゃ流石にどうしようも無いですよね。

でも、それならですよ?この0.2秒を何度も何度も繰り返して、沢山迷えば良いと思いませんか?

それが「自分が行動するかしないかを自分で決める事」もっと短くいうなら「迷う事」だと僕は思ってます。

これが出来れば少なくとも動物と同じレベルになれます。

 

② 自我を持つ事

さてさて、これがこの今回の記事を読んだ感想とも繋がってくるんですが、まぁダラダラ書いていきましょうかね。

多分①と同じじゃねぇかよって貴方は思ったかもしれないんですけど、ちょっと僕の中では違くて

ざっくり言うと「コミュニティの幸福≠貴方の幸福」って話なんですよ。

まぁ例えば人を殺してはいけませんってルールがあるじゃないですか、あれって大多数の人間は殺されたくないし、殺したくないから、そういうルールがある訳ですよね?

でももし貴方が人を殺す事でしか幸福になれないサイコパス野郎だとしたら、貴方はそのルールがあるコミュニティの中では絶対に幸福になれませんよね。

「いや、サイコパス野郎の事なんてしらねぇよ」って思うと思うんですけど、割とそうでもなくて

もう一つ例をあげれば同性同士で愛し合ってはいけませんって風潮、社会的規範のようなものがありましたよね。

あれは大多数の人間は同性同士では愛し合わないばかりか、同性同士でセックスした結果エイズが蔓延したっていう事があってそういう事になったんですよね。

んで、これくらいスケールダウンした例なら多分想像つくと思うんですけど、もし貴方の好きな相手が貴方と同じ性別だったら貴方はそのコミュニティでは絶対に幸福になれませんよね。

だから「コミュニティの幸福≠貴方の幸福」なんですよね。

んで、そのコミュニティのルールに従うか従わないかという選択は貴方が決める事であって、コミュニティが強制できるものでは無いんですよ、本来は。

でも基本的に多くの方は「ルールに従う」という選択肢しか持ち合わせていないと僕は感じます。そこでルールに従わないという選択肢も持ち合わせる事が僕は自我を持つという事だと思います。

これが出来ればコミュニティの家畜ではない、コミュニティと共生できる動物だと僕は考えます。

あ、人間の定義その③は愛を持つ事です。

愛こそ動物と人間を分ける1つだけの壁だと僕は思うので。はい。

 
さてさて、これでやっと本題に戻れます。

えーと、冒頭の記事の内容なんですけど掻い摘んで言えば「他人が貴方を代弁する時代が来る」という事ですね、

まぁ僕も来ると思います。それは最早避けられないと思います。

 

それも悪く無いと思います。

貴方が他人の語る「貴方っぽい何か」で満足出来るならですが。

ただ僕はその時代の到来に一つ大きな危惧があります。

それは「貴方っぽい何か」で満足できなかった人が排除されるのではないか、という事です。

僕は昨今のコミュニティは実に排他的だと思います。

例えば自分たちのコミュニティに属さない出来事に対して「コミュニティに入れない」のならば分かります。

しかし、昨今で多く見られるのはコミュニティに属さず、ただそこにあるだけの出来事に対してまで、コミュニティのルールに従えないのならば排除していく、という姿勢です。

何故ここまで群衆心理が暴走するのか、という理由はきっとネット関連の技術の発達の賜物と言えるでしょう。

コミュニティの明瞭化、コミュニティに属する人間の増える速度の増加、そして何よりコミュニティの存在しない場所がどこにも無い事。

もはや我々は常に複数のコミュニティから群衆心理的圧力をかけられ続けています。自らの自我を手放してしまう人間がいても不思議では無いと思います。

そしてコミュニティに属する人間が残らず自我を手放した時、そこに属する人間達を贄に、今まで僕がコミュニティと呼んでいたモノが本当の意味でこの世界に顕現します。

それは人に認知出来る自我を持たず、責任を持たず、実体を持たず、しかし自らを維持する為に他を貪り食い続ける化け物です。

人と人とを隔てる壁が全て打ち壊されて1つのコミュニティとなった時、人間は一体何になるのでしょう?

僕が小学生の時に見た化け物はその存在を維持する為に僕を喰らおうとしました。

所謂スケープゴート論です。コミュニティを維持する為にはどうしても必要になるモノです。

スケープゴート論に関しては下記のリンクどーぞ。

https://synodos.jp/society/18244

あと蝿の王とか読むと良いかもですね。

さて、では全ての人が1つの化け物になってしまったら何を食うのでしょうか。

その時化け物を形作る細胞となった人間達は幸福なのでしょうか。

一つ安心出来る事はこの世界に存在する万物ありとあらゆるモノはいつか壊れるという点です。

 
さてさて、それでは皆様に幸福な死が訪れますように。おやすみなさい。

希望があるからこそ頑張れるって本当?って話

はい、笑える地獄をお届けします、まぢかるです。

よく言うじゃないですか「希望があるから頑張れる、耐えられる」って

でも僕は違うと思ってて

僕は「希望がないから耐えられる」と思うんですよね

勿論万人に当てはまるとは思いませんが、少なくとも僕はそうでした。

例えば「自分は孤独だ」と思うとします。

それはとても辛く悲しい気持ちで、早く救われたい、この気持ちから抜け出したいと思うようなものです。

でも「自分は死ぬまで救われない」と確信めいた気持ちがあれば、救われたいとか、助けて欲しいとか、そこから抜け出そうとか、思いませんよね

どうやってこの孤独と付き合っていくのかを模索すると思います。

怒りも同じです。

とても嫌な思いをして大きな怒りを抱えた時でも「自分が怒っても泣いても誰も助けてはくれない」と最初から思っているなら他人に何かを求めようとは思いませんし、その怒りが自分ですら解消できないような大きな感情であれば、そのうち「怒り」を感じる事すら忘れてしまいます。

そうやって僕は自分の感情と付き合って、もしくは無視して生きてきました。

別に自分に感情が無いとか言ってるわけでは無くて、そういう感情に気づけないって話です。

まぁでも気づいていなくても感情は蓄積されていくらしくて、ある日そういった感情が噴出して、歌を作るわけですね。

なので多分僕の中にも普通の人が感じる程度の怒りや悲しみもあるはずなんですけど、それが全く分からないんですよねぇ……

 
最近僕は他人に「優しい」と評される事が多いのですが、それは僕が自分の欲求を満たす事を諦めていて、だから他人に優しくできるだけであって、もし僕が救われる価値のある人間だと僕自身が感じてしまったら多分僕は多くの人間を傷つけてでも自分を救おうとしてしまうでしょう。

だから僕は「希望が無いから耐えられる」のだし、「希望がないから耐えれる」と思い続けなければいけないのです。

 
早く仮面ライダーになりたいですねー

今日のボヤきは以上ですー、皆様に良い週末を〜おやすみなさい

部屋でうんこした話。

まだ死んでないです。まぢかるです。

 

 

僕が怒りのあまりに部屋で脱糞した話は、友人間では中々に有名な話なのですが、改めて当時の気持ちを振り返ってみようかなと。

と、その前にそこまでの経緯を少々語らせて頂きます。

 

きっかけは些細な事でした。

テレビの朝のニュース番組をボーッと眺めていた時のことです。

その内容は「〇〇被告の裁判での内容がナンタラ」と言った内容でした。

さてさて年中無職でやる事もない僕は、日がな一日snsを意味もなく見ているのですが(きっと多くの無職もそうでしょう)その日もニュースを見た後に特に意味もなくsnsを眺めていました。

しかしなんだが誰もがピリピリした様子。

詳細を追っていくと、どうやら〇〇被告についての話のようでした。

そこで見た内容は〇〇被告に対しての罵詈雑言、彼の出世に関しての話など見るに堪えない内容ばかりでした。

 

僕は思いました。「犯罪者や非倫理的な人間は差別されるのだ」と。

何故か無性に悲しくなりました。

論者達は特段彼からの被害を受けたわけではないのに、彼らは何故そこまで怒っているのか、僕には理解できませんでした。

 

勿論犯罪行為や非倫理的行為は社会において非難されるべき行動かもしれません。

しかし非難されるべきは行いでありその人間そのものでは無いとも思います。

 

まぁ、僕が被害者ならそれでも犯人を憎むでしょうし、損失を受けた大多数の人もそうだと思います。

でも彼らは、その〇〇被告からの被害を受けているわけではありません。

 

兎にも角にもその当時の僕にはその彼らの「怒り」への怒りを持っていました。

 

誰にだって怒りという感情はあります。ありますよね??

 

そして怒りという感情は往々にして誰かを、何かを傷つけてしまいがちです。

また「非倫理的な行為」というものがあります。端的にいうとその行為を行うと社会的に悪と認知されます。

 

僕は「部屋でウンコをする」という行為でこの二つのテーマに挑んだ訳ですね。

まず一つは誰も傷つけずに、なんなら笑えてしまうような方法で怒りを表現する事。

もう一つは誰も傷つけずに社会的悪となる事。

 

なぜこの二つなのかという事なのですが、当時の事をあまり覚えてないので曖昧なのですが

確か、「犯罪者は悪人である。故に差別しても良い」という論調が当時とてつもなく気に食わなかったんですよね。

悪人、善人、常人、誰でも人間だって事は変わらない訳で。良いこと悪いことの基準だって(◯◯にとって都合の)良いこと、(◯◯にとって都合の)悪いこと、以上の意味を持ちませんし。

 

それより怒りの感情で他人を平気で傷つける奴の方がよっぽど悪いやつだと僕は思ったんですよね、確か。

 

そうした思いを込めて、僕は部屋でウンコした訳ですよ。

いやぁ今にして思えば、個人的にはかなりベストバウトでしたね。

人間的感情と社会的善悪の対立というなんだかよく分からんテーマを漫才的な内容によく落とし込んだと思います。

 

みんなもしようぜ、うんち!

 

ってな感じでとりあえずは締めさせていただきます〜

皆様に素晴らしい終わりの在らんことを〜アンバサ〜

うんこちんちんおしっこは万国共通語なのか?という話。

いや、だってカートゥーンアニメでもうんこで笑わせにくるシーンはありますよね?

あとはチンチンぶつけて悶えるシーンはきっとどの世界の人達でも笑うと思うんですよ。

おしっこは一段落ちますが、うんこちんちんに次いで登場回数が多いと感じます。

そして、これらの要素を含む「笑い」は多くの層が見るであろう時間帯のテレビやインターネットなどでも使われており、かなりポピュラーな要素であると考えられます。

 
とここまで前置きです。以下はメモからの抜粋です。

 
うんこの話

うんこちんちんは面白い。何故か?うんこちんちんは人間が善悪の区別も無い赤子の時からあるものだから

マンコは無いのか?という疑問には赤子は子供を作る機能を持たないのでマンコは無いというのが持論

うんこは善悪を区別しない。赤子がうんこをする事は成長への第一歩だがうんこ自体は汚いものだし(排泄物だから当然)うんこを漏らすという事は失敗であるとも言える。

故に、うんこは善悪性別の垣根無く誰にでも普遍的に存在するものであり、またそのうんこの存在を笑って許せなければ生きていく事もままならないと言える。

もしうんこの存在を笑って許せない人間であっても死ぬ時はクソと小便を垂れ流しながら死ぬのに、その時になって「あぁ自分はクソと小便を漏らして情けない」だなんて思いたく無いでしょう?だからもし「うんこ」で笑った事がない人が今この記事を読んでいるなら、とりあえず「うんこ」で笑っても良いんだ!うんこで笑おうという事をしてみてほしい

話が飛躍したが、つまるところうんこは全ての人間が平等にするし、ちんこは幼児のある種の象徴である。またこれらが絡むエピソードの多くは失敗談であり、そのエピソードを語る人物の変えられない幼児の時から持っている本質の様なものが垣間見える。「しかし赤ちゃんだから仕方ねーだろ」の精神で笑えてしまう。

大人だから赤子じゃないんじゃなくて、赤子であり大人なんです。大人と赤子という言葉で理解しにくいなら人間と動物に置き換えてもらっても良いです。

 
メモからの抜粋は以上になります。

後々修正はかけるかもしれませんが、とりあえずはここまで。

ではでは、皆様に幸福な死が訪れますように〜。おやすみなさい。

 

(この記事はワードプレスからの移転です)

 

言葉にするなら言葉にならない、ならばどうしよう?とかそんな感じの話

はいはい、挨拶します。

「(こんにちはとか、お日柄とよくとかそんな感じのアレ)」

しました。

忘れる前に本題に入ります。

僕は言葉は大きな力をもっていると思います。

例えば、同じ空でえ「星達の沈む海に浮かぶ太陽」みたいな表現をしたなら、なんだか空虚に感じますし「雲を貫く鋭い光線」の様な表現をしたなら、太陽の恐ろしさやそのチカラを感じる気がしませんか?

でも、だからこそ僕は言葉というものが怖いです。

何故なのか?と思いますか。

思ってくれると次の話に繋げやすいので思ってください。

ではその問いに答えましょう!!

といっても別にそこまで大した内容ではないですが。

 
Q.なぜ僕は言葉が怖いのか。

A.さっきの二つの文章は同じ時間に同じ空をみた同じ僕が思った二つの感想だからです。

 

なんだか混沌としてきました……。続きを書きます。

 

さてさて、さっきの二つの文章を見た時に貴方は同じ空だと思いましたか?同じ時刻だと思いましたか?多分答えはNOだと僕は予測しています。

NOではない人は多分こっち側の人なので多くの人間はきっとそういう風に感じているんだろう、と考えてその多くの人になりきって続きを読んでください。

僕が言葉の欠陥だと思う事。
いえいえ、欠陥といっても大そうなモノではないです。少なくとも貴方がこれからこのまま生きていけると思うのなら。

今までは文章というモノを見ていましたが少し遡り言葉というモノを見てみましょう。

「青」という言葉を見て貴方は何を感じますか?別になんでもいいので想像してみてください。

まぁこれに関しては千差万別だと思います。水色や紺色などの色々な青を想像した人も居ると思いますし最近見た青いモノを想像する人もいるでしょう。先程空の話をしたのでそれがよぎった人も多いのではないでしょうか。

それではもう少し文章に近づけて行きます。

「青いボールペン」ゆっくりと想像してください。具体的には0.5秒(もしかしたら0.2秒だったかもしれません)を10回ほど繰り返すイメージです。つまり5秒。

1…

2…

3…

4…

5…

本当に考えました?まさか高速スクロールなんてしてませんよね?もし貴方が高速スクロールをしてこの文章を読んだならやり直して下さい。貴方の自由意志で想像してください。

 
想像しましたね?選択肢は「イエス」or「はい」です。

さて何を想像しましたか?まぁ多分また千差万別でしょうね。大丈夫、なんでも良いんです。

さてさて「青いボールペン」コレは今僕が手にして直に感じているモノです。

本当にその辺りにあった青いボールペンです。他の何物でもないです。

僕はこのボールペンから物理的に音と触感と映像を感じました。

貴方は感じましたか?多分考えてもみなかったと思います。

僕は自分が手に取り触り聞き見たモノの名前を書きました。ですが貴方は僕がみたモノを感じる事が出来ませんでした。

コレが言葉の怖さだと僕が思う点です。

もちろん、いくらでも僕が感じた感覚を言葉にする事はできます。カチカチという音、サラッとした描き心地、青いインクの色。

ですがコレは貴方がこのボールペンを実際に手にとって感じる感覚とは違うモノです。

例えば聴覚過敏の方などはカチカチという音に強い不快感を覚える方もいるかもしれませんね。

それに「なんだかわからないけどイライラする」「理由も分からないけれど恐ろしい」そんな出来事を貴方は言葉のみで表現できますか?

いや、出来る方も居るとは思いますが、多くの人間は無理でしょう。

ほら今「うわ、なんだこいつなんかムカつくな」って思いましたよね?

「なんか」って思いましたよね?その「なんか」の正体を貴方は説明できますか?それも僕に理解できる言葉で。

別に良いんです。それが言葉の欠陥なのです。

貴方が「なんか」を説明できない理由は簡単です。それは貴方が今までそれを表現する必要性に駆られなかったからです。

何故なら自分とかけ離れた感覚、感性を持つ人間や動物を理解しなくても貴方の周囲には貴方と近しい感性を持つ人間がいてその中で生きていくのなら不自由はないのですから。

批判ではないですよ、それは素晴らしい事でありとても幸福な事です。是非貴方はその場所を大切にして下さい。

ですが同時に恐ろしい事でもあります。何故なら貴方の周囲に居る貴方と近しい感性を持つ人間でさえ貴方と同じ感性を持った人間ではないからです。

それでは簡単にまとめましょう。

Q.言葉の欠陥とは何か?

A.言葉や文章はそれ単体では意味を為さず、それを読む人間の知識や経験によってもたらされる想像に寄る部分が大きいから。かといって状況のみを詳細に記した場合は文章というよりは記録となり、しかし感情を織り混ぜて書いて仕舞えば、その解釈は一辺倒になり、理解を超えて共感を呼ぶ可能性があるから。

 

 

それでは少し話を進めて本題へと入っていきたいと思います。

言葉の欠陥を補う方法
もし言葉に出来ない程強烈な刺激を表現するとしたらどのような表現が適切でしょうか?

もし貴方が貴方の持ちうる感情を全て適切な言葉で表現できる人ならばこんなクソブログなんて読んでる時間は勿体ないです。貴方は今すぐ芥川賞に応募してこんなクソブログの事はすぐにでも忘れ去るべきです。さようなら。

 
ん……この文章を読んでいるという事は貴方は言葉にできなかったのですね。大丈夫です。他にも方法はいくらでもあります。

だって人は言葉だけで意思疎通を行なっているわけではありません。むしろ僕は言葉は蛇足だとさえ思います。

例えば、今貴方の目の前にムカつくヤツが居て今にも今にも貴方の大切なモノを壊そうとしています。この時に貴方がもっている感情は怒りです。どうしたらこの怒りが相手に伝わるのか?

簡単ですね、ただぶん殴ればいいんです。思いっきり怒りを込めてぶん殴るんです。

 

じゃあとてもハッピーな気分を伝えたい時は?

踊りましょう。歌いましょう。笑ましょう。

 
どうですか?簡単だと思いませんか?僕は無駄に言葉を弄するよりもよっぽど分かりやすいと思います。

殴られた相手は貴方がどれほど怒っているのかを感じるでしょう。しかし貴方の気持ちに共感する事は無いです。

理解はするが共感はしない。とても大切な事だと思います。

 

 

 
もし貴方が立場上怒りのままに暴れる事や大声で笑う事、そのような感情表現が許されないのなら、歌を作ってください。 悲しい気持ちならマイナーコードを使って、楽しいのならメジャーコードを使ってください。

歌詞は最初は「ラララ」で良いです。ただ貴方の心の赴くままに囁き、呻き、叫べばそれでもうそれは貴方の歌です。曲としての体裁はコードが作ってくれます。

絵を描くのもいいでしょう。貴方の見えた、感じたモノ、貴方の欲しいモノ、それらを描いてみて下さい。

 
さてさて、ここまで読んでいただきありがとうございました。読んでくれてなくてもありがとうございました。

それでは、皆様の幸福なる死を願って、おやすみなさい。

 

(この記事はワードプレスからの移転です)