葦は明日を考える。

一人の人間が考えた『明日』を、つらつらと書き連ねます。

面白そうなテーマをいくつか

 

面白そうなテーマを幾つか思いついたのでメモしておきます

これを読んだ人にどれか一つでも引っかかると嬉しいですね!

 

①.世間と関わらないメリット

Ⅰ.情報が入らないので物欲が刺激されない、これは金銭的なメリット

Ⅱ.他人と比較出来ないので劣等感を感じる事もない、これは精神的なメリット

 

と考えると社会から離脱する事は有意義なように思えるが俗に言われるのは「孤独は人をおかしくする」という事

しかしそれを「おかしい」と定義しているのもまた社会

もしかしたらこの孤独故の異常さというのは人間を社会的な生き物としての定義から外して一つの生き物や人格として考えたらごく自然な事なのでは?

 

この異常さで良くある話は「見えないものが見えるようになる」「攻撃性が増す」といった話だが、もしかしたら「社会」というものが本来見えていたはずのものを覆い隠しているだけなのでは?

 

②自由ってホントにいい事なの?

自分は食欲や性欲に支配されて暴れている人間を見て「グロいな〜」と思ったりするのですが

じゃあ支配が完全にない状態、つまり食欲も性欲もない完全な自分だけの世界ってのがあるとして

それは鬱状態と同じじゃないか?

例えばホルモンバランスによる精神の昂りや落ち込みも無くなるけれど、それらは大いに自己の人格形成に関わっているわけで

というかそれら自分の肉体的な部分、所謂本能とされる部分と精神は切り離して考えることなんて出来ないんじゃないかと

しかしそれらが自分を支配して振り回す事があるのもまた事実

というか「自分が自分でありたい」「支配されたくない」なんて気持ち自体それらに支配されているから思う事なのでは?

そもそも自分なんてものはなく自分が自分だと思っているものなんて全てただ細胞に電気が通った時の火花なのかもしれない

でも自分と本能を切り分けて考えるべきではないなら、自分と空間、自分と他人、自分と世間も同一として扱うべきじゃないか?

 

③情報、熱力学的死を迎えそうじゃない?

インターネットというものが生まれて僕らは情報の温もりに触れる事が出来るようになりました

そして遠い距離でもお互いがお互いを認識できるようになり他者との繋がりが増えました

(僕はインターネット以前を知りませんが)

でもさぁ情報も他人との関係も飽和し過ぎじゃない?

でもそれ以前には戻れない訳で

ところでエントロピーって雑にいうと「乱雑さ」の値なんですけど、今の人間の関係性ってこのエントロピーがすごい高まってると思うんですよね

他人と自分がぐちゃぐちゃに混ざり合って、正しさと醜さも混ざって、強者が弱者で弱者が強者で

そしてそんな混乱が新たな混乱を呼んで

熱力学の世界では限界までエントロピーが高まると、その時点で変化は起こらなくなり死を迎えると言われていますが

人間の熱力的死はきっとlcl化でしょうね

んでさ、エントロピーって不可逆的に増加するんすよね

つまりこの値は一度増えたが最後下がらないって事

僕らは何も知らなかった猿には戻れない

見えていたものが見えなくなってもそこにあることを僕らは知っている

 

いやでもさぁマジで変化し続けるって大事なことで、いや確かに最後には安定を求めたい気持ちもあるんだけども、安定は死なので

でも僕の意識は生きてる間しかないわけじゃないですか

死んだ後の自分は自分じゃないんですよ

まぁよしんば死ぬのは構わない、というかむしろ求めてる節がありますけれど

どう死ぬかって大事じゃないですか?なんつーんだろ、体操の着地が評価に影響するみたいな

こう人間って相反する矛盾の中で揺れながら「その中で1番自分が安心できる事ってなんぞや」みたいなのを求めますし、安定する事、しない事のどちらかを求めますけど、ちゃうんじゃないなぁと

揺れて止まるまでが大事だって話じゃないですか

A点からB点に移動するグラフってのが人生の簡略化した図ですけれど、その中で大事なのってA点B点じゃなくてその2点を繋ぐ線じゃないですか、それが人生なのでは?と思うんですよ

 

なんの話してたっけ