葦は明日を考える。

一人の人間が考えた『明日』を、つらつらと書き連ねます。

小説的なアレ「ファンタジー」

序章
 
「奴を追え、今すぐ!」
 ガス灯が映える石畳の街に降りた闇の帳とばりを、固く無機質な靴音と駆動音、ソレらとは対照的な、ともすれば獣の断末魔にも近い怒号が切り裂いた。
「あれは……あれは、この国の、我々の最後の切り札だぞ……」
 怒号の主であろう老年の男は、周囲の兵士とは違う尊大な印象を受ける軍服を纏っておいた。男は、白髪交じりのしわがれた顔には到底似つかわしくない程大きな、軍服の上からでも分かる程鍛え上げられた大きな背中を子供のように震わせ、誰に言うでもなく呟いた。その傷だらけの手には真鍮製の素朴なロケットが握りしめられていた。
「隊長、我々はどうしますか」
 幾数人残った取り巻きの兵士の一人が、彼のその巨躯が嘘のように小さく見える背中に向かって問いかけ、彼の沈みかかった意識を引き上げた。
「あ、あぁ。俺とお前たちは、飛空艇に乗って奴を追う。悔しいが奴はこの隊の中で一番の操舵主だ。奴に追い付くには先に空に出るしかない」
 兵士の声で本来の冷静さを取り戻した男は、己の部下の犯した失態と、この事態による己の今後について考えるのを一度止め、目の前の問題を解決する為に、空挺のある倉庫へと向かった。
 
 男は軍人だった。しかもこの国の最高機密を任せられるほどの優秀な軍人であった。彼は戦場で名を上げ、その身一つでこの地位までたどり着く程の男だった。男は当時の戦場での話を宴会の席でよく部下に語っていた。曰く戦場で生き残る為に必要なのは鍛え上げられた肉体でもなく最新鋭の武器でもない、本当に必要なのは、恐怖に揺らがぬ精神を持ち全てを投げ打って死ぬまで生き抜く意志だと——しかし、それはほとんどの兵士達には剣で戦っていた時代遅れの老人が酒の席でふと語る、事実より美しく彩られたカレイドスコープの中の思い出のように聞こえていた。
事実彼自身も現在では、もはや意志で斬り合う時代はとうの昔に終わったと思っていたし、また自分も己の言葉とは裏腹に、そのような時代の流れを受け入れ始めていることに気が付いていた。そう、全てを投げ打ち最後まで戦ったとしても、何かを変えられるなど―――
だが、一人だけ、話していた本人ですらただの思い出話と切り捨てた話を今、強く鮮明に思い出している男がいた。街の路地を軽四輪蒸気駆動車で走り抜けるこの男は、隊一番の操舵主であり、また隊一の向こう見ずでもあった。
「よし、あともう少しで格納庫だ。怖いか。安心しろ、武装解除されたヴィンテージの飛空艇だが魔導式の飛び切り速い奴だ」
 男は上ずった声で、荷台で揺れる物言わぬ影に向かって言った。
 
 男の車は速かった。隊で所有している最も早い駆動車を選んだとはいえ、それは追ってくる元同僚たちも同じだった。にもかかわらず、男の駆動車は蒸気を噴き上げながら、路地を超え、階段を超え、他の兵士の追従を寸手のところでかわし続けた。
 確かに男の運転技術は優れていたが、その能力は飛空艇を駆ってこそ発揮されるモノだった。だが彼は自分の能力を過大評価していた。故に、いつもの如く、さもありなんといった様子で加速ペダルを踏み続けた。無知ゆえの度胸だった。また追手の兵士達も男の速さと無謀さには常日頃から舌を巻いており、今回の事においても半ばあきらめ気味に追跡をしていた。そのため、男は運良く追手に捕えられずにすんだのだった。しかし実際かなり無茶な操縦だったため車に掛かる負荷は尋常ではなく、街の端にある目的地が見える頃には、駆動車はあちこちへこんでおり、原動機は激しく蒸気を噴いていた。
 目的地が見えると男は、その逞たくましい足でより一層強くペダルを踏み込んだ。必要以上の力にペダルはひしゃげた。車体の揺れはより一層大きくなり、速度計は針が飛んでいきそうになるほど大きく、速く、左右に振れた。車は加速を続け、ついには目的地の格納庫へと突撃し、その勢いのまま壁へと叩きつけられた。
 男は頭から血を流しながら車を降りた。窓から投げ出されることを降りるというならばだが。
 車から降りた男は奇麗に五点着地を行うと、——―これも宴会の時に隊長が何度も話をしていた事だった――すぐに立ち上がり荷台へと駆け寄った。荷台にはロープで頑丈に固定された鉄製の箱があった。箱は男より少し小さい位くらいの大きさで、底には移動用の小さな車輪が付いていた。正面には丸い窓がボルトで固定されているが、中は暗く様子を伺うことは出来ない。
 男はその箱を急いで荷台から降ろすと素早く車から離れた。男が車から離れると、車が大きく燃え上がった。ペダルが壊れ限界以上の負荷がかかった原動機がついに融点を迎え、炎を噴き出したのだ。
「怖かったか? 大丈夫だ、あと少しだぞ」
 燃え盛る軍車が写る箱の窓をのぞき込み、男は静かにささやいた。
 
男は格納庫の奥へと進んだ。男は奥の飛空艇へ着くと、格納庫のシャッターを開けた。男の夕日のように揺らめく瞳に映った空は漆黒のコールタールの雲に覆われ、男にはまるで自分を飛び立たせないために誰かが空に蓋をしてしまったように見えた。上空では風が吹き荒れ、雲がゆっくりと泥のように流れている。いつもの風はあんなにも心地がいいのに、どうも今日の風はまるで、男の燃える意志を吹き消そうとしているようだった。男が太く濃い眉を曲げながら風を聞いていると風に運ばれて何かが走ってくる音と、数人の男たちの声が聞こえてきた。
———兵士達ががもうすぐそこまで来ている!
 男はすぐさま飛空艇のハッチを開けると、箱を押し込み操縦席へと飛び乗った。いくつかのレバーを上下に動かし、それぞれの機能がキチンと可動していることを指で指して確認する。「異常なし!」入隊したての頃からの癖でつい声を出してしまう。しかしその声を聞き表情を緩める者はここには居なかった。
次に燃料を確認する。この飛空艇の主な動力は魔導機関と呼ばれる代物なのだが、魔導機関を動かすには燃料となる鉱石、日緋色金ヒヒイロカネが必要であった。しかしこの鉱石は非常に希少価値が高く、帝都の中でもほとんどの産地は軍の所有であり一般人は近づけず、帝都の外に至っては、グラムで一月、キログラムなら一年、一世帯が働かずに暮らせる程と言われる物であった。故に最も重要な確認事項の一つなのだ。計器の目盛は5分目半の辺りを示している。軍の備蓄庫からくすねるのでは、これが限界だった。心もとないが、ゆっくりと飛べば何とか国境までは飛んでいけるだろう。
必要事項を確認し終えて、魔導機関に燃料を入れる。機関が独特の甲高い音を響かせ動き出す。男は数秒間目を閉じ、手を合わせると、小さくうなずき操縦桿そうじゅうかんを握りしめた。
 
男は雲の中を飛んでいた。雲の中は風が強く視界も悪い上に常に雷が飛び交っているため、余程の腕の者でもわざわざ飛ぼうという変人は少なかった。つまり身を隠すには好都合だったのだ。もっとも彼はその変人の中の一人だったが。
つい先ほどまで恨めしく思っていた雲や風だったが、今この時だけは自分を守ってくれる仲間のように感じられた。
しばらく飛んでいると、周囲の雲が少しずつ薄くなってきていた。これは工業の盛んな地域を抜け郊外に出たということを示していた。男が窓に顔を近づけて下を見てみると、月の光に照らされた黄土色の大地と、松明やカンテラの暖かい光に揺らぐ村々がうっすらと見えた。
男は、もはやこの雲にカモフラージュの能力は無いと判断し、少しでも遠くから発見されないようにする為、高度を下げ始めた。男は雲のベールを抜けると、ふと先ほどまで自分が居たあたりを眺めた。と、上空で何かが光っているものが見えた。最初、雲の隙間から差し込む月か星の光にも見えたソレは、段々とこちらへ近づいてきており、また、よく見ると赤く仄暗ほのぐらく光っていた。男はその光を良く知っていた。
男は大きく目を見開きソレを一瞥いちべつすると、手元のレバーを大きく倒し、魔導機関の出力を最大まで上げた。機関は甲高い音を上げながら、赤く仄暗ほのぐらく、光り始めた。
 
レバーを全力で倒しながら、男は己の三つの慢心を後悔していた。
一つ、男は自分の能力を過信しすぎていた。いくら腕が良くとも、冷静に事に当たろうとも、男の乗る飛空艇は所詮、民間仕様の武装解除された型落ち機だった。確かに余計なものを積んでいない分軍仕様の重武装艇よりスピードは出るが、しかしそれは、もし追い付かれた場合抵抗する手段が無いことを意味していた。
一つ、男の所属する部隊は帝国の研究所の配属であり、男の部隊はその研究所の警備の他に開発された兵器の試験なども担当していた。これは常に最新鋭の兵器を使えるという意味でもあった。実際に戦場で運用される兵器の為の堅実なテクノロジーとは違い、それ自体が目的となる研究所の技術において、その進化の速度は日進月歩だ。コストを度外視したら、ついこの間開発された兵器より優れた兵器が開発されるなど当たり前のことだった。しかし、これらのリスクについては男も重々承知していた。だからこそ男は雲の中を飛び、出来うる限り目立たないよう飛んできたのだ。
 最後の慢心は男に操舵と戦いのイロハについて教えた人物の事だった。その人物曰く、彼は銃がまだ使い物にならないような時代から飛空艇を駆り、剣を携え、勇猛の限りを尽くしていたらしい。男はその人物が酔った時にだけ話すこの話が好きだったが、その人物がこの話をする時のどこか遠い所を見ているような眼だけは好きになれなかった。というのも、その話に出てきた、燃えるような意志を湛えた眼をした男と、それを誇らしげに語りながらも、それがまるで若さゆえの過ちであるが如く冷たく自嘲気味に笑っている老人が、同じ世界を生きていたとは到底思えなかったからだ。
だが男は迫りくるソレから放たれる二〇粍ミリメートル徹甲弾を機体に浴びながら確信した。あの話の男は確かに、あの懐古主義に堕落してしまったはずの、あの隊長の、紛れもない真実の話だったのだと————
 
己の機関砲によって撃ち落とされた魔導式飛空艇が、仄暗ほのぐらい赤の明滅を途切れ途切れに繰り返しながら森へと墜ちていく様子を、燃えるような意志を湛えた冷たい目の老年の男が、張り付けたような表情で見つめていた。
 
 
 
一話
 
 木製の質素な家の庭で金属のぶつかり合う音と鋭く短い掛け声が幾度となく響く。二つの金属音は互いに少しずつ激しさを増していき、ついに一際大きな音を立て片方の音が遠くへと弾き飛ばされた。後に残されたのは、伸びをしながら余裕とともに吐き出される息と、それとは対照的な途切れ途切れの荒い呼吸音だった。
「実際よくやってるよ、お前は」
 鍛え上げられた広背筋を伸ばし、大きく息を吐きながら男は言った。男は古めかしい、しかし手入れの行き届いた曲刀を腰の鞘へと押し込んだ。額にうっすらと浮かんだ汗を手ぬぐいで拭くと、男の足元に突っ伏し背中を大きく上下させている少年の頭へ、その手ぬぐいを放り投げた。
「よくやってるって言ったって、こんなに手玉に取られてるようじゃ……はぁ」
手ぬぐいの下で少年が呟く。その表情をうかがい知ることは出来ないが、そのため息を聞けば、彼を知るおおよその人間が、への字に曲げられた眉と口を想像しただろう。
「お前はよくやりすぎなのさ。むしろもう少し楽をすることを覚えたほうが良い。でないと俺みたいな意地悪な人間には一生勝てないぞ」
白髪交じりの顎鬚を撫でながら、男は少年の隣にその重い腰を下ろすと、どこにあったのか、おもむろに酒瓶を取り出した。
「アルは、逆にもう少しちゃんとした方がいいと思うけどなぁ」
 少年はようやっと息が整ったのかゆっくりと体を起こすと、隣で酒瓶のコルクと格闘している男を横目で見た。手ぬぐいが落ち、少年の、目立たないがよく見ると目鼻立ちの整った端正な顔があらわになる。少年は、汗で額に張り付いた髪をかき上げると、疲れからとはまた違う深い大きなため息を吐いて立ち上がった。
「お、どこか行くのか」
 未だ空かない酒瓶と格闘しながら男が尋ねる。
「レンが祭りの飾りつけやってるから見に来いって。アルも行ってあげたら?」
「あぁ、こいつが開いたら行くよ」
 気の抜けた生返事が返ってくる。残念な事にこの男の興味は既に目の前の酒瓶にすべて注がれていた。妹のレンに、もしこのおじのアルトゥーロの今の様子について聞かれたときになんて答えようか。少しの罪悪感に頭を抱えながら少年は庭を後にした。
 
 町の広場では、祭りの準備が着々と進められていた。町の住人たちがせわしなく歩き回る間をすり抜けながら歩いていると、子供たちが民家の壁や屋根の軒に花を飾り付けているのが見えた。
「あ、リハムだ」
子供達のうちの一人が少年を指さして言った。少年がそれに気が付き手を振ると、その中の一人の少女が駆け寄ってきた。
「お兄ちゃんは今日のお稽古はもう終わったの? アルおじさんは?」
 少女は、曇りのない大きなグレーの瞳で少年———リハムを見上げた。リハムは、不思議そうに三つ編みを左右に揺らす少女に、恥ずかしいんだか申し訳ないんだか分からない、どうにも決まりの悪そうな顔をした。すぐに少女はその表情の意味を理解したのか、大きくため息を居つくと、頬を膨らませ、口をへの字に曲げた。
「もー、せっかく可愛く飾りつけしたのに! 後でうちも飾り付けようと思ってたけど、やーめた!」
 少女は地団太を踏みながら子供達の所へ戻ると、手に持った花を他の子供へ渡した。
「大丈夫? まだ仕事おわってないんじゃないの?」
 リハムは自分の服の端を掴んだレンの機嫌を極力損ねないようにしながら尋ねた。
「後はもううちだけだったからいいの。ね、それより、もうお稽古終わったならお菓子たべに行こうよ。シスターさんがね、飾りつけ頑張った子たちにお菓子配ってくれるんだって」
 先ほどのむくれ顔は何処へ行ったのか一転して、いたずらっぽい笑みを浮かべ、レンはリハムの手を引いた。
「うーん、俺はなんもやってないから貰えないんじゃないかな」
「もし貰えなかったら私のお菓子分けてあげるから大丈夫だよ」
 レンの歩幅はリハムの歩幅の三分の二程しかなかったので、小股で歩かなければすぐ追い越してしまいそうだった。レンの楽しそうに揺れる三つ編みを眺めながら、リハムはどこかぎこちない様子で小刻みに足を運んだ。
 しばらく歩くと、他の家より一回り程大きな建物が見えた。その下では数人の子供たちと一人の女性が楽しそうに談笑しながら、練った小麦粉を焼いたもので蜂蜜を挟んだ菓子を頬張っていた。女性は白と黒の質素なローブを纏っており、子供たちの目線と同じ高さまで身を屈ませて、優しく微笑みながら子供たちの話に耳を傾けていた。
「シスター、こんにちは!」
 レンが大きな張りのある声で挨拶する。それに釣られてリハムも小さく会釈をした。
「リハム、レンこんにちは。飾りつけが終わったんですね」
 シスターはゆっくりと立ち上がる。立ち上がったシスターはリハムの伸長をゆうに超えていた。そして、朗らかな笑みを浮かべて、リハム達へと歩み寄ってくる。
「はいどうぞ、一人一袋ですよ」
彼女は焼き菓子の入った袋を手に持ったかごから取り出すと、一つずつレンとリハムに手渡した。焼きたてなのか、まだ少し暖かく甘い匂いがする。
「そんな、俺今日の飾りつけ手伝ってないですし、もらえないですよ」
 リハムは申し訳なさそうに袋を押し返す。するとシスターは先ほど子供たちにしていたように、リハムの目線と同じ高さとなるよう少し腰を落とすと、彼を透き通った青い瞳で見つめた。
「貴方はアルトゥーロの所で稽古をしていたのでしょう。力を持つものが成すべき事をしっていますか? それは貴方の家族を、この町を、良き隣人を、大切な何かを守る良き剣になる事です。その為に貴方は稽古に励むのですよ。大丈夫、貴方は今日も立派に役目を果たしている」
彼女はリハムの髪を優しくなでながら、ゆっくり言い聞かせるように言った。リハムは自分がこの町の人々に抱いている思いをシスターに代弁され、少し気恥しく感じた。が、彼女の手に何度か触れるとすぐにその恥ずかしさもどこかへ溶けてしまった。リハムは母親の顔を少ししか覚えていなかったが、いつもこのシスターの手に撫でられるたびに、きっと母とはこのように暖かい手をしているんだろう、と思った。
 
 二人は教会を後にすると、どこに行くでもなく街をふらふらと歩いていた。
優しく語るシスターの話を聞いたのちのリハムは、時々腰に差した剣を確かめるように触るようになっていた。剣は鋼鉄でできた飾り気のない実戦的な形状で、ずっしりと重い。リハムはいつもより重く感じる剣を確かめると同時に、今までその重みをすっかり忘れていたことを少し恥ずかしく思っていた。
「おひひひゃん、どふひたの」
 唐突にレンがリハムに話しかける。口の中の先ほどの焼き菓子が唾液を吸ったせいで膨らんでおり、その顔はまるで冬眠前の動物のようだった。
「ちゃんと飲み込んでからしゃべりなさい」
リハムは吹き出しそうになるのを出来るだけ抑えるため、出来る限りの威厳のある表情をした。眉を寄せてあごをしゃくれさせ口を突き出す。鼻腔がぴくぴく震える。本人は至極真面目な顔をしているつもりだったのだが、端から見れば、どこかの国の祭りで被るおかしなお面そのものだった。そのような顔を見てしまったのだから、レンが口の中の物を思わず詰まらせてしまうのも仕方のないことだった。
リハムはなぜレンが噴き出したのか全く分からなかったが、あまりにも目の前の妹が顔を赤くしながら咳き込むので、思わず心配になりその背中を軽くたたいた。
レンは一呼吸おくと兄の腕を払いのけた。
「もう、なんで変な顔するの! もう! もう!」
 レンは若干涙目になりながらリハムを叩いた。身長差のせいで腰や腹にばかり当たる。
「いてっ、いてっ、変な顔したのはそっちだろ!」
「そんなの知らないもん! えい!」
「あふぅ!」
 尻をしばかれる兄が面白かったのか、はたまたその事自体が楽しいのか、悪そうな笑いをこぼしながらしばらくの間レンは兄を追いかけまわした。
 
 少し日が傾いてきた頃、じゃれあい疲れた二人は帰路についていた。
「なんか今日は楽しかったね。明日はお祭りだしもっと楽しいかな」
 兄とつないだ手を大きく振り回しながらレンが言った。
「できれば俺も痛くない楽しみを見つけてほしいな」
 わざとらしく尻をさすりながらリハムが言う。
「そんなに痛いの? なでた方がいい?」
 レンが心配そうにリハムの顔をのぞき込む。
「あー痛くなくなってきたー。あー治ったー」
 レンの心配そうな顔を見て満足したリハムは、さも今なおったからもう必要ない、といったように己の尻を撫でるのを止めた。
「本当は最初から痛くなかったんでしょ?」
 妹の追及を適当にかわすため、とぼけた顔をしながら歩いてると向こうから、アルトゥーロと数人の大人が歩いてくるのが見えた。彼らは顔をほのかに赤らめて大きな声で歌を歌っていた。
「お、リハムじゃないかぁ。俺、これから村長の家で前夜祭やるからさ、夕飯用意しといたから適当に食っといてくれや」
 それだけ言うとアルトゥーロは、歌を歌いながら仲間たちと、またどこかへと歩いて行った。
 ふらふらと揺れる影たちを見送ると、二人は思いつく歌をいくつか歌いながら帰路へとついた。
 
 家に帰ると二人は早々に夕飯を済ませ庭へと出た。夕飯を食べ終わった頃には、既に空は暗くなっていた。普段星が見えるはずの方角には薄い雲がかかっており、朧気に光がちらついていた。
「今日は星が良く見えないな」
二人は夜になると毎日空を眺めていた。
「なんだか雲がお月様の目を隠しちゃったみたい。悪いことしほうだいだね」
「でも今日は街の明かりが消えないから、この町じゃ難しいかもね」
「でもこれだけ暗い空なら、いくらでも星座を見れるよ。ほら、あの星と星の間は空島座で、あっちは鳥船座」
 レンが微かに雲の隙間から見える星と星を指さした。その星々間には無限の闇が広がっていた。
「ストロトツラ叙事詩の空島リバロンド奪還の所?」
「そう、そう! 『英雄は鳥船を駆りて、空の島を奪還せり』のところ!」
「じゃああっちは魔法使い座で、そっちは土巨人座だな」
「魔法使いとゴーレムは悪い奴だからあっち」
 周囲の家から賑やかな笑い声が漏れる中で二人は小さく肩を寄せ合いながら、夜の闇に空想を映しつづけた。
 
「少し眠くなってきちゃったね」
 レンが霞む目をこする。気づけば二人が空想に耽初めて数時間がたっていた。既に周囲の家のいくつかは明かりを消しており、明かりの消えてない家からも子供の声は聞こえなくなっていた。まるで世界に置いて行かれたようだった。
「風も冷たくなってきたし、俺たちももう寝ようか」
 リハムは立ちあがると、服に着いた土を手で払い落した。眠そうに顔を膝にうずめるレンを立たせようと手を差し出す。
「わたしもう少し悪い子でいたいな」
 レンはリハムの手を掴まず、代わりに霞んだ瞳で空を眺めていた。いつの間にか空の風が強くなっていたようで雲が薄くなっている。雲に隠れていた月と星が現れてレンの瞳に映っていた。
 リハムもつられて空を眺める。雲に隠れた月と幾つかの星が瞬いていた。その中に一際強く輝く二つの星が見えた。その二つの星は赤く仄暗く瞬きながら、まるで絡み合うように右へ左へと動いている。二つの星が何度か近づいた後に、片方の星が町の裏山へと落ちていくのが見えた。
「すごい、すごい! 流れ星だよ、お兄ちゃん! ねぇ見に行こうよ!」
「レンは願い事した? 俺忘れちゃったよ! 今から山に行って願い事しても大丈夫かな」
 二人は初めて見る流れ星に興奮を抑えられなかった。先ほどまでの眠気などまるでなかったかのように、二人はあわただしく家へと飛び込んだ。
「ランプと~、マントと~、剣もいるかな」
「もぉ、お兄ちゃん遅いよ、早く早く」
「ちょっと待ってよ。でもレンはパジャマのまま行くのか?」
「忘れてた。40秒で支度する!」
 レンが二回の自室へと一段飛ばしで駆け上る。布団の上のチュニックを素早く着てドアノブに掛けられた子供用マントを掴むと、今度は二段飛ばしで階段を駆け下りてきた。
 玄関ではリハムが準備を終えて待っていた。
 夜の街は静寂に包まれており、時折どこかの家から大人たちの話声が聞こえるだけだった。あまりに静かでお互いの心臓の音すら聞こえそうだった。二人ははやる気持ちを抑えながら出来るだけゆっくりと、悟られないように街を後にした。
 
 
二話
 
二人が山に入ってから幾数分経った頃、彼らは見渡す限りの緑の中を粛々と歩いていた。町を出たころの勢いはすでに無く、森に響き渡る獣のうめき声と足元の砂利とブーツが忙しなく擦れる音が夜の闇にうごめく者達の存在を示していた。
 森のなかをしばらく歩いていると、誰かがリハムのマントを強く引いた。
「こっちであってるの?」
 リハムがマントの端に目をやるとレンが不安そうな顔でリハムを見上げていた。その手には兄のマントが強く握られていた。
「方位磁石に従えばこっちのはずなんだけど」
 リハムが手の中で金属のケースに入ったコンパスをくるくると回した。しかし針は本体の動きには追従せずに、ただ一方向だけを指示し続けている。
「な?」
 彼はそれをレンに見せ大丈夫だと言うようにしたり顔をした。
「ほら、朝になる前に見に行こうぜ」
不安そうな妹の頭を撫でてやるとリハムはその手を優しくしっかりと握った。するとレンは先ほどより少し安心した様子で小さく嘆息すると、兄の手を握り返した。リハムは先ほどよりゆっくりと歩き始めると、レンもそれに従い、二人はまた歩き始めた。
 
二人がこの森に来るのは、幼少の頃に他の子供達と遊びに来た以来だった。というのも誰かがこの森には子供にしか会えない魔物がいると言い出したので、それを聞いて居てもたってもいられなくなり、大人たちに秘密に子供達だけで来たからであった。
結局誰もその魔物を見つけられなかったのだが、当時3歳程だったレンには何かを感じることが出来ていたようにリハムは思えた。しかし後から聞いてもレンは何も覚えておらず、次第に記憶も朧気になった今では、神秘的な森の匂いと、肩透かしを食らったような残念な思いだけが今の彼が記憶する数少ないこの森に関する思い出となっていた。
 
 
 神秘と言うよりは深淵。この森に入った時、数少ないこの森に関する記憶を思い出しながらリハムは感じていた。それはカンテラの明かりに照らされる樹木が死霊のはらわたに見えるほどの恐怖だったが、しかし不思議と彼の足は止まらなかった。むしろ彼の後ろでレンが小さく震える度に、進む足に力が入るようだった。
「レン、何か感じるの?」
 ふと気づくとレンが後ろで周囲を見回している。彼女は先ほどより強くリハムの手を握っており、それが彼女の不安な気持ちをリハムに感じさせた。
「ん……と、よくわからないんだけど、あっちの方で何かが怒ってるような、音? がね、聞こえるような」
 レンが指を指す方に耳を傾ける。リハムには何も聞こえなかったが、彼には妹の不安な気持ちを否定することは出来なかった。
「様子見に行ってみるよ。……レンはここで待つ?」
「や、やだよぉ! ついてくついてく、ついていきます!」
 二人は出来るだけ物音を立てないように森の奥へと進んでいった。リハムは何も感じなかったがレンは一歩進むごとに嫌そうに顔をしかめていた。子供ゆえの想像力の逞しさなのか。リハム自身も夜の家の隅に、時々恐ろしい怪物や物語を想像することがあったので、レンの闇への恐怖は理解をしているつもりだった。が、一歩進むごとに忙しなく周囲を見渡すのを見ると、それにしては今回の恐れようには食い入るような生々しさがあるように感じられた。
リハムは今まで以上に強く警戒した。彼は本来なら闇を恐れるような年齢ではない。しかし何故なのか、今までレンが強い感情を得ると決まって何か大きな事が起きるのをリハムは経験で知っていた。故に、リハムはレンの『恐怖』していることに恐怖していた。
カンテラをレンへと渡すと、リハムは空いた方の手を剣の柄へと置いた。暗闇をじっと見据えて、森の静寂へと耳を傾ける。
遠くで微かに、獣の叫び声の様なものが聞こえたような気がした。しばらく音のする方へと進んでいくと数発の破裂音が聞こえた。明らかな銃声と飛び掛かる獣の咆哮。これはもう紛れもなく人と獣の闘争の音だった。
「レンはここで待ってて、必ず迎えに来るから」
 言うが早いか先ほどの牛歩の歩みとはうってかわって、まるで機関銃の弾丸のように木々の間を音のする方へと駆け抜ける。腰で重く揺れる剣を引き抜き行く手を阻む枝を叩き落としながら目的地へと真っすぐに走り抜けた。
 
 そこには何か大きな赤く仄暗く明滅する金属の塊と、その横で何匹もの獣に今襲われんとしている一人の男が居た。まるで兵隊のような恰好をしたその男は、リハムが今まで見たこともないような形の武器を持っていた。先ほどの音とその武器からたちあがる煙から見るに銃の類であろうことはすぐわかるが、幾つもの銃口が空けられたまるでレンコンか蓮の花にも見えるソレはリハムの知っている銃とは全く違うものだった。しかし男は一向にその銃を使おうとせずに、左手に握られた短いサーベルで苦しそうに獣を捌いている。どうやら既に銃の方は使い物にならないのだろう。
獣の方はというとオオカミ、鹿、キツネなどが一同に会するという異様な光景だった。その中に一匹、一際大きな体の四本の牙を持つイノシシが存在した。周囲の獣とは明らかに異質な雰囲気を持つそれは群れから一歩さがった場所で、他の獣達に指示を出しているようにも見えた。
一匹の獣が疲弊した男へと飛び掛かかる。その瞬間男の頬を掠めて一振りのナイフが獣へ向かって飛んで行った。ナイフは獣の目へと命中し、空中で急所に攻撃を受けた獣は、そのままバランスを崩し地面へと叩きつけられた。獣たちがうろたえる間もなく森の陰からリハムが飛び出す。リハムは地面に倒れてうめき声を上げる獣へ素早く近づくと、その目に刺さったナイフを左手で引き抜いた。
「アンタは……?」
 男が血で霞む目を大きく見開く。
「良き剣…ですかね。ほら、早く逃げて」
 リハムが微かにはにかみながら、地面へと座り込んだ男に手を差し伸べる。
「残念だがそういう訳にもいかねぇんだ。後ろの飛空艇に命より重要なもんが積んであってね……」
 男は滲む血を服の袖で拭いリハムの手を掴んで立ち上がると、再び剣を手に取った。
「分かりました。でも危なくなったらすぐ逃げて」
 そう言うとリハムは、正面に獣の群れを一瞥すると大きく息を吐いた。左半身を一歩引くと腰を低く落とす。左のナイフを順手に持ち直すと剣の刃を群れに向け、獣達を正面に見据えた。
「お前たちに恨みは無いが……行くぞ!」
「ッ……おぉし、やるぞ!」
 
二人の掛け声と同時に、獣たちが雄叫びを木霊させながら渦の如くなだれ込む。血走った目で二人の男を睨みつけ、あるものは鈍く光る牙で首をねじ切ろうと大きく口を開けて、あるものは悪魔の指先のように曲がりくねった角ではらわたを抉り出そうと、どの獣も等しく怒りに身を任委ね二匹の侵略者を屠らんとかかっていく。
 リハムにとって明確な殺意をもって自らに向かってくる生き物を相手にとるのはこれが初めてであった。恐怖に心臓が爆発的に脈打ち体中の血管が、致命傷を避けるために収縮しているのが分かる。体が避けろと脳に訴える。しかし、リハムは動かない。一匹のオオカミが彼の首を狙って飛び掛かる。しかし動かない。オオカミの牙がリハムの肌に触れる寸前、リハムの目が大きく見開いた。その瞬間、彼の体が陽炎のように揺れたかと思うと、オオカミはリハムの左手のナイフへと自ら飛び込んでいった。ナイフがオオカミのあばらを通り抜け音もたてずに心臓へと滑り込む。オオカミが一瞬呻いたかと思うと、水風船に穴をあけるような感触がリハムの手へと伝わった。その感触がリハムのこれまで培ってきた知識と知恵を技へと変化させた。
 オオカミが地面へと倒れ込む。倒れた同胞の意を汲むように更に猛り狂った獣たちが二人へと襲い掛かかる。するとリハムが男の前へと進み出た。
「俺が捌くので、とどめを刺してください!」
 リハムは飛び掛かってくる獣たちを、左右の刃で地面へと叩き落とす。何匹かはすぐに立ち上がりまた彼へと攻撃を仕掛けるが、いくら傷を負っていたとしても軍人、男が瀕死の獣程度を通すはずがなかった。怒り狂う獣たちに比べ、この人間達はあまりにもクールだった。勿論彼らが感情を無くしたわけでは無いが、それでもあくまで人間たちは機械的に効率的に、皮を裂き、骨を断ち、肉を解体し続けた。
 
 気づけば獣の数は既にごくわずかで、残るは巨大なイノシシと手負いの獣が数匹残るだけとなった。
 獣と人間の間に一瞬の静寂がながれた。リハムはこのまま獣が退く事を望み剣を静かに下げた。
しかし既に獣は怒りに狂っていた。
一瞬のスキをついて獣が動いた。巨大イノシシがその巨体に見合わぬスピードで二人の方へと突撃してきたのだ。
 リハムは素早く態勢を立て直すとこれまでと同じように攻撃を受け流す体制に入り、男はとどめの準備を始めた。血に濡れた刃と牙が、最後にもう一度だけ交わろうとしていた。
 
人間の作り上げたシステムの一つである流れ作業、これは人間を一つの工作機械のように扱い同じ作業を繰り返す方法だ。故に、致命的な失敗を犯すリスクが少なく、また技術の熟成や効率にも非常に優れている。今回の彼らの戦闘法は奇しくもこの流れ作業に非常によく酷似していた。故にこの戦闘において二人は大きく消耗せずに戦い続けることが出来た。
しかしだからと言って常に優れているわけでは無く、もし、この方法の欠点を上げるなら、『画一化された作業故に規格に合わない工程は対処できない事』、『同じ作業を続けるが故に作業者の集中力が低下し、とっさの判断が遅れること』の二つを上げることが出来る。
この時このイノシシの獣の行動は、そもそもが対人間用の剣術であるものを無理やり対獣に合わせていたリハムに対しての『規格外』であり、また『予期せぬ事態』であった。
 リハムと男の体が宙へ持ち上がる。そして次の瞬間に体は地面へと叩きつけられた。肺の空気が衝撃で漏れ、意識はまるで泥の中を泳いでいるようだった。
 幾数分の間理性によって抑え込まれていた恐怖が、リハムの脳裏に思い浮かぶ。数分前は守るべき対象と、それを行使する力があった。しかし、男は先ほどからの傷もありもうすでに意識は無く、またリハム自身も剣を振る力さえ残っていなかった。
 それでも彼は必死に意識を繋ぎ止め、考えつづけた。するとふと視界の端に、赤く仄暗く光る鉄の塊があることに気づいた。先ほど男はそのなかに重要なものがあると言っていた。軍人らしき男の、命より重要なもの———軍の何かの機密か、あるいはそれ以外か、リハムは最後にそれに掛けてみようと考えた。
 イノシシは哀れな虫を見るようにリハムを見ていた。きっと殺すときはいたぶって殺すのだろう。しかしリハムはそんな獣には目もくれず、足を引きずりながら鉄くずへと這いよった。
 近くで見ると鉄くずは、古い時代の飛空艇であることが分かった。なるほど、男はこれで何かを運んでいたのだろう。
 リハムは最後の希望を託して赤く仄暗く明滅する飛空艇へその身を投げ込んだ。
 
 飛空艇へ飛び込むとリハムは素早く扉を閉めた。頑丈な鉄製の扉で、数分の間ならあの猛獣からの猛攻にも耐えられるだろう。
 荷室へと通じる扉をあける。中は思った以上に暗く手探りで調べるほかなかった。
 人が一人入れるかどうかといったような荷室を這うように調べると、明らかに厳重に保管されているものを発見した。布を外して荷室から引きずりだす。それは金属の箱であった。
 箱の大きさはリハムの身長と同じ程度であり、表の面に位置する蓋にはガラス製の窓がはめられている。蓋はいくつかの留め具で固定されていたが、何とか開けることは出来るだろう。
もやは猶予は無かった。リハムは中身を確認もせず留め具を剣でこじ開けた。
 
  箱の中には美しい少女が横たわっていた。武器の類は1つも無く赤いシルクのシーツの上にただ1人の美しい少女が眠るように横たわっているだけだった。
  危機的状況でありながら、リハムはその少女に見入ってしまっていた。銀色の雨のような髪に、透き通るような雪の肌、体は大きなマントで覆われて見ることはできないが、きっと空を飛ぶ白鳥のような手足をしているのだろう。
  何分経っただろうか、飛空挺の扉が吹き飛ばされる音でリハムは引き戻された。死が寸手の所まで迫っていた。